グラヴナー(グラヴネル)訪問の思い出 1/2

グラヴナーのアンフォラ

GORIZIA(ゴリツィア)市内から車で10分。
Collioの丘をめざし、「ワイン街道(SP17)」を行くと、「アンフォラ」と呼ばれる、素焼きの巨大な甕(かめ)を庭先に置いている建物が、目に飛び込んでくる。

世界中の作り手から、敬意と賞賛を集める「 ヨスコ・グラヴナー (ヨシュコ・グラヴネル)」彼の自宅兼セラーである。

庭先の古い「アンフォラ」は、現在のイタリア自然派ワインにおける、グラヴナーのプレゼンスを、見るものに雄弁に訴えかけている。

ミハ・グラヴナーとの思い出

さて、グラヴネルのワインを語るとき、個人的にどうしても忘れらない人物がいる。
27才の若さでこの世を去った、息子 ” Miha Gravner ( ミハ・グラヴナー )” である。

初めてイタリアに着いたその夜、電話越しで初めて話をした相手が、ミハだった。
アポイントの日時の再確認だけでなく、道順、車での所要時間など、こちらが尋ねる前に、事細かに連絡してきたのだ。
彼のフランクな話しぶりは、「ヨスコ・グラヴナー」という偉大な名前を前に、臆していた心を、見事に解きほぐしてくれた。

ヨスコ・グラヴナーのセラーを訪問したのは、2007年夏。
たしか、ラディコンやラ・カステッラーダを訪問した翌日だったと、記憶している。
砂利が敷き詰められた、軒先にスペース車を止めると、すぐに息子のミハが出迎えてくれた。

収穫のとても忙しい時期の訪問だったためか、昼ごはんを食べたばかりのヨスコ・グラヴナーは、古い家屋の軒でサングラスをしながら、ガーガー昼寝をしている最中だった。

その当時、一般的のゲストへの案内は、普段の醸造作業に加え、ミハの仕事だった。
長身で手足が長、くハンサムな27歳の彼は、いかにも「今時の若者」といった感じだった。
英語も堪能で、インターネットにも強く、最新の流行にも敏感。
ゴリツィア市のバスケットチームの選手でもあった。

実は、日本から持ち込んだ新品のパナソニック製のデジカメの使い方を、ミハから教わった。
恥ずかしながら、僕は大のメカ音痴な上に、あろことか、説明書を置いたままイタリアに来てしまったのだ。

ミハは、偶然にも、モデルチェンジ前のデジカメを持っていて、新製品に買い換えるために、連日ネットでチェックしていたのだそうだ。
(そういえば、マルペンサ空港にもパナソニックの広告が大々的に打たれていた)
シャッターボダンの場所から、各種撮影モードまで、実に丁寧に指導してもらった。

デジカメ話ですっかり意気投合した後、まずは、白亜に輝く改装途中の屋敷の中を案内してもらった。
新設する1Fセラー部分の基礎工事は殆ど完了していて、2階は、モダンなバー・スタイルの、テイスティング・ルームになるらしい。
ホステリア・スペースも用意したい、とも言っていた。

グラヴナーのセラーの中へ

日本から手土産としてもってきた焼酎を手渡し、ミハに導かれるまま、念願のセラーへ入る。

日々、偉大なグラヴナーから直接ワイン造りの指導を受けているミハから、英語・スペイン語で、根掘り葉掘り話しを聴けたのは、本当にラッキーな体験だった。

彼と数時間過ごした経験が、今日僕のフリウリワインの味わいを分析する際の糧となっている。
彼は、地葡萄に関する味わい特徴を、いくつも教えてくれた。

グラヴナーのセラー内部
大樽熟成中のグラヴナーのワイン

薄暗い大樽の部屋に進み、次々と醸造中のワインを注いでもらった。

まずは、中規模の大樽(中樽?)に眠っているワインをテイスティング。

  • Ribolla(リボッラ) 2005
  • Ribolla(リボッラ) 2006
  • Breg(ブレッグ)2005
  • Breg(ブレッグ)2006

スポイトを持ちながら樽から樽へ渡り歩く、ミハの口から「今はもう、シャルドネの葡萄は作っていない」と聞かされた。

つまり、ブレッグは、「ソーヴィニョン・ブラン、シャルドネ、トカイ・フリウラーノ、ピノ・グリージョからなるブレンドワイン」だが、将来、シャルドネを用いずに作るということを意味している。

いずれも、各ワインガイドがこぞって最高評価を付けるであろう、見事な出来映えでだった。

特に2006年ヴィンテージの両ワインは、お金さえあれば大樽ごと買い占めたくなるような、神々さを放っていた。

暑い年の、グラブナーは、本当に凄みがある。

グラヴナーはシャルドネでなく、ソーヴィニョンやピノ・グリージョ等の単一品種ワインも、生産を止めて久しい。

シャルドネを止めた理由を、ミハにたずねた。

「うん。シャバくて(水っぽくて)、旨くないから止めた!」

なんとも、グラヴナー・コレクターの心臓を突き刺すような、恐ろしい一言を頂戴した。(お、俺のコレクションは、なんなのだ??)

ミハ個人に生産を中止する権限などあろうはずがない。

これが、内輪で語られる「本音」というやつなのだろう。(じゃ、なんで造ってたのよ!ってなりますよ、普通。)

グラヴナーの「グラヴナーらしさ」とは

なんのためらいもなく、栽培するブドウや、ワイン造りのスタイルまでも、大胆に変えてしまうのは、いかにもグラヴナーらしい。

何より、ヨスコ・グラヴナーのワイン造りは、決して伝統的とは呼べない。

むしろラディカルであり、常にフリウリワインの進化をリードしてきた。

グラヴナーのワインの歴史は、「試行錯誤」「日々革新」の繰り返しである。

ヨスコ・グラヴナーが、ステンレスタンクを使用しクリーンなタイプのワインを造る以前は、当該セラーは、伝統的な手法でテーブルワインを量り売りする、いわゆる「普通のワイナリー」だった。
その当時、ステンレスタンクを中心に据えた設備は、周囲の生産者達に比べれば、分不相応なほど、近代的なものだった。

クリーンな味わいを表現したヨスコだったが、一方で、葡萄本来の味わいが表現しきれていないことに疑問を持ち始める。

その頃、近隣のラディコン達とともに、バリックを用いて、ブルゴーニュ的な表現のワインを造ることを試みる。
バリックはワインに樽の香りを付けるのが目的ではない。
果皮と搾汁をいっしょに漬け込み、そのままバリックで発酵させることで、骨格のはっきりした味わいを表現した。

手ごたえを感じた、ヨスコはステンレスタンクの設備を一掃。 バリックを大量に購入する。
80年~90年前半にかけ、このバリックを用いた白ワインは、非常に高く評価された。(一部では「マコン以下」という酷評も得た)

しかし、ヨスコ・グラヴナーは、より伝統的で自然なワインを志向するようになる。

現在、ラディコンや、ラ・カステッラーダ、テルピン・フランコ、ダリオ・プリンチッチ、パラスコス・エヴァンジェロス等、オスラヴィエ周辺の生産者達が行っている、木製の大きな醗酵タンクで発酵を行い、大樽で熟成させるワイン造り方である。

畑も、日本の自然農法の父「福岡正信」を信奉し、 周囲から好奇の目に晒されながらも、ビオロジカルな葡萄栽培へシフトした。

そして、2001年以降、木製の大きな醗酵タンクはセラーから追いやられ、醸造設備の主役は「アンフォラ」へと変わる。

アンフォラでのワイン造りは、とてもユニークだ。
温度コントロールをせずに約7ヶ月間の発酵を自然酵母のみで行う。
その後、大樽で41ヶ月間熟成をし、7ヶ月瓶内熟成後リリースする。

こうした、これまでの「探求者」としての道のりとそのワインの品質に対して、ヨスコ・グラヴナーを称える言葉は、枚挙に遑がない。

フランス、シャンパーニュ界の帝王アンセルム・セロス(ジャック・セロス)が、イタリアワインの尊敬する造り手として筆頭にあげるのは、故E.ヴァレンティーニと、グラヴナーである。

ブルネッロの最高峰とされる「カーゼ・バッセ」のオーナーのジャンフランコ・ソルデーラは、『偉大なワインとは赤ワインのことを言うものだ。しかし、偉大な白ワインを挙げろといったら、私は間違いなくグラヴナーを選ぶ。』 とまで、語る。

グラヴナーを称賛する声は、単にワインの味わいに対してでなく、「挑戦と失敗」を繰り返しつつも、常に前へ進み続けようとする精神に対して、おくられている。

(つづきます。)


One Response to “グラヴナー(グラヴネル)訪問の思い出 1/2”

  1. […] 参考:『極上イタリアワイン当たり年』さんにある、クラヴナーを訪問した際の記事がとても興味深いです […]

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