Villa Russiz (ヴィラ・ルシッツ) 訪問

Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)、そして「革新者」Gianni Menotti(ジャンニ・メノッティ)。

ジャンニ。メノッティ

ガンベロ・ロッソ2006年版でイタリア最高のエノロジストに選ばれた、Gianni Menotti(ジャンニ・メノッティ)。
この「話題の人」に逢いたくて、2007年に、Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)を訪ねた。

近年の、同社のワインに対する、評価は鰻登り。
ガンベロ・ロッソをはじめとする、イタリアのワインガイド各紙では常連であり、地元でポピュラーな地葡萄の白ワイン、” Collio (Tocai) Friulano (トカイ・フリウラーノ)” も、2004年、2009年とトレ・ビッキエリを獲得している。

歴史

Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)は、フリウリ=ヴェネツィア・ジューリア州において、大変歴史のあるカンティナである。

CollioからTriesteの一帯のエリアは、その当時、オーストリア帝国領、つまりハプスブルグ家の持ち物だった。
「ハプスブルグの庭」とも呼ばれたこの一帯は、葡萄作りに適した土地として有名であった。
この地で10代続く生産者である、ブレッサンによれば、マリア・テレジアの帝国領内で、領主のド・ブレシアーニ男爵に、税金としてワインを収めていた、記録があるらしい。

イタリアとオーストリアの国境地帯にあるこのエリアは、常にその支配がめまぐるしく変わる、激しい戦火にさらされた紛争地帯だった。

  • ナポレオンの治世下は、この一帯は、イタリア王国であった。
  • 1815年、ウィーン会議により、オーストリアの統治下に。
  • 1848年、愛国心に燃えたイタリア人グループによる叛乱の圧力により、イタリアとオ ーストリア両国の支配をかわるがわる受けることになる。
  • 1866年、普墺戦争。
  • 同年年7 月末、イタリア軍によるウーディネへの侵攻。
  • 同年8月、休戦協定により一時オーストリア領となる。
  • 同年10月、和平会議で、オーストリアはヴェネツィアとフリウリの西部をイタリアに割譲。
  • 1867年 アウスグライヒにより、オーストリア帝国はオーストリア=ハンガリー帝国となる。

そうした混乱の中、1869年、フランス人貴族 Theodore de La Tour(セオドア・デ・ラ・ツール)と、ゴリツィアの貴婦人 Elvine Ritter(エルヴィネ・リテール)の結婚を期に、このカンティナは創立された。

このエリアに、初めてフランス系葡萄品種を始めて持ち込んだのが、セオドアである。
彼は、日照条件の良い南向斜面の丘(現在のヴィラ・ルシッツの丘)に植樹をした。

第一次世界大戦後、未亡人となった Elvine Ritter(エルヴィネ・リテール)は、1894年、自分の農園を孤児院とすることを条件に、イタリア政府に寄贈する形で非営利財団として法的な保護を受けることになる。

紛争が安定して以降、Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)の名前は、良質なワインを造る生産者として、Collioを中心に広がっていった。

1988年から、ジャンニが醸造責任者を担当して以降、品質は加速度的に向上し、国際競争力を持つまでに至った。

2012年以降、2006年より醸造チームで勤務していたジョヴァンニ・ジェニオが醸造責任者を務めている。

前述の孤児院には、現在も従業員の子供や孤児を合わせ、約80名が通っている。
カンティナの敷地内には、住み込みで働く家族の為の寮もある。

ワインによる収益は、孤児院の運営にも充てられている。

期待に胸ふくらむ Villa Russiz への道

さて、多くのイタリアのワイン生産者にとって、「9月」は収穫スタートの繁忙期にあたる。

心あるワインラヴァーならば、この時期の訪問は、できれば避けるべき。

メールで数回オファーをしたが、当然、「やはりこの時期のアポイントは難しい」と言われた。

しかし、「そこを何とか1時間だけ」と執拗にお願いをし、ようやく、合意を取り付け面談が実現した。

必死にとった、Gianni Menotti(ジャンニ・メノッティ)氏とのアポイントメントである。
遅刻は絶対許されない。

定宿 ” VOGLIC(ヴォグリッチ)” で朝食を数分で平らげ、9時半のアポに対して、8時に宿を出発。

前夜、若旦那の Daniel からもらった、Gorizia市内の地図が、多いに役立つ。

彼がマジックで書いてくれた、市内のガソリンスタンドの位置と、市内から Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)のある ” Capriva del Friuli(カプリヴァ・デル・フリウリ) ” へ抜けるルートを頼りに、目的地を目指す。

ヴィラ・ルシッツを目指す

Goriziaのチェントロをかすめ、UDINE(ウーディネ)へ抜ける、県道56号。
ウーディネからトリエステへと続く鉄道と併走していて、延々と続く1本道である。

昔はこの鉄道の線路を挟んで、ハプスブルグ側とイタリア側とに分かれていた時期もあったらしい。
因みに、創設者のテオドールの時代、ゴリツィアの鉄道駅がオープンした際の式典にも、Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)のワインが用いられた、という記述が同社のホームページで確認できる。

道の左右は延々と続く葡萄畑、小麦、柑橘類の畑に覆われた緑の風景。
所々にカンティナを示す茶色い看板。

56号の道幅は、自動車の量と速度を考えると、狭い。
東京都内で言えば、246号程度の両側2車線程度。(ウーディネに近づけば4車線と太くなる)
イタリアでは当然のごとく、皆100㎞以上でこの狭い道を飛ばす。

” Capriva del Friuli(カプリヴァ・デル・フリウリ)” を示す交差点には、 ” Villa Russiz ” の看板が出ている。

カプリヴァ・デ・フリウリの中心地

古びた鉄道の高架をくぐると、カプリヴァ・デル・フリウリの中心地に入る。

とても静かで小さな村。
村の中心地や、周辺にある大小のカンティナの案内看板が、目に入ってくる。

カプリヴァ・デ・フリウリの地図看板

偶然通りかかった、乳母車をひいたヤンママに、道を尋ねる。
見かけに反し、とても気持ちのよい対応と丁寧な説明。

偶然なのかもしれなが、どこにいっても、コッリオの人たちは、どこかゆったりとして、礼儀正しい人が多いように感じる。
難なくVilla Russiz(ヴィラ・ルシッツ)へ到着。

Villa-Russizの正門

門を入る直ぐに、孤児院が見える。。
敷地の中へ車を進めると、白亜の巨大な建物が目に飛び込んできた。

Villa Russizのカンティナに到着

villa-russiz (ヴィラ・ルシッツ)

なんというか……、これは「城」ですよね。(ラブホではない)

ここは、Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)のゲスト・ルーム兼オフィス。
周囲の広大景色と、荘厳な建物の外観に思わず見とれる。

予定より30分早めについてしまったために、秘書のSara Salemi(サラ)さんにオフィス通されしばし歓談。

ジャンニがオフィスに到着するまでの間、自社商品と販売戦略について、ガイドしてもらう。

…… サラさんが連絡してから約30分経過。
さほど面識の無いもの同士で、次第に話す事も無くなっていく。

既に畑からオフィスに向かっているとのことだが、彼は未だ現れず。
それ程までに Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)の畑は広大なのだろう。

ジャンニ・メノッティ登場

突如、「ハーイ!」とスキンヘッドの紳士が、颯爽と登場。 
ジャンニ・メノッティだ。

シャツやベルトまで、ビシッ!とカジュアルできめている。
知的で、社交性に富み、洗練せれている印象を与える、「ナイスガイ」の典型。
第一印象からして、無茶苦茶かっこいい!

Cormonsにある ” Colle Duga (コレ・ドゥガ) ” のダミアン・プリンチッチが言っていたが、尊敬と親しみを込めて、この辺では「カルボン・クライン」と呼ばれているらしい。
※スペイン語・イタリア語で「カルボ」は禿の意味。

テイスティング

ゲストルームで、ジャンニに1対1で質問した。

現在フリウリでは多くの醸造家達がメルローを造っている。
数あるフリウリ・メルローの中で、ジャンニの手掛ける、メルロー ” Collio Merlot Graf de La Tour (グラフ・ドゥ・ラ・トゥール)” や、ノーマルクラスのメルローには、グラン・ヴァン特有のエレガントさとストラクチャがある。
その秘密は何か、何が違うのか? ジャンニ本人から、一番聞きたかったことだ。

この年、フリウリの各カンティーナを訪問した中で、 同社が造るメルローが持つ、酸の強さ、ミネラル感、色の濃さは、明らかに周辺の造り手のものと比べて一段上を行っていた。
日本でよく飲んでいるノーマル・メルローも、2002年という小さなヴィンテージながら、グラスに残ったワインは、翌朝バラのように華やかな香りを放ったものだ。

彼は、何度も何度も「あくなき品質の追求、これが理念である」という言葉を繰り返えすだけだった。
ゆっくりとした英語で僕に説き伏せるように語ってくれたが、それが全てだ、と言わんばかりだった。

ジャンニの唱える「理念」と、彼を取り巻くチームの情熱が、このカンティナのエンジンとなっている。

Gianni-Menotti

人為的に温度管理が可能なステンレスタンクや、そのほかの醸造設備を見る。
小さなコンクリートタンクでワインを造っている、周辺のカンティナと比べれば、 Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)は設備過剰な生産者なのかもしれない。
しかし、国際マーケット(特にイギリスやフランスのマーケット)を視野にいれた品質や生産量を前提とすると、この位の設備は、小規模な方だろう。

Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)が目指す方向も、国際マーケットの方である。
地元のトラットリアで家庭料理と合わせるワインではなく、VIPや政財界の人物が集う一流レストランやホテルのワインリストにリスト・オンされるようなスタイルのワインである、

ふと、棒で発酵中のワインを突いている、オスラヴィエの巨匠達の顔が脳裏に浮かぶ。
同じ生産地にありながら、造るワインの方向性はこうも異なるのかと、正直驚かされた。

” Collio Merlot Graf de La Tour 2004 ” と ” Collio Friulano 2006 ” ゆったりと試飲する。

前述のように、同社のワインは、赤・白問わず、どの品種のワインもアルコール感が強く、大変ミネラリーでクリーンな味わいが特徴である。

酒質も別格。
コルモンス周辺の中小の造り手達のワインよりも、はるかに洗練されている。

Villa Russiz(ヴィラ・ルシッツ)のメルローも、白ワインのフリウラーノも、できれば大降りのボルドー・グラスで楽しみたい。
クラッシクなフレンチとのマリアージュも難なくこなす、実にふところの深い味わいである。

別れ際、先程の孤児院の話に話題が移った。
「あの子たちのためにも、いいワイン造って、しっかり稼がないとね。」
自分自身に(まったくだよ)といいそうな、軽い溜息をまじえながら、さわやかに笑っていた。

最後に、ジャンニと記念写真。
遠くに見える、ヴィラ・ルシッツの丘には、一族が眠るモニュメントがある。
周囲を葡萄畑と糸杉囲まれたその風景は、奈良の「古墳(円墳)」のようだった。

with-Gianni Menotti

余談

フリウリでの全日程を終え、ピエモンテへと車を走らせる途中、インターチェンジに差し掛かる途中で、急遽、同社に舞い戻った。
ジャンニ・メノッティとの試飲後、6日も経っていたが、どうしてもその素晴らしい味わいが、脳裏から離れなかったためだ。

このフリウリ滞在中、絶対に自腹をはたいて買わねばならないと思ったワインは、パラスコスのスカラと、ルシッツの2本である。

(2007年夏訪問)


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